映画の感想 ~予想外のおまけ~

 映画『九十歳。何がめでたい』を観に行った。映画館には車で行ったが、その日はドライブレコーダーの表示にも視界不良の警告灯がつく土砂降りで、そのせいか、私が行った横浜の映画館の観客数も、十人足らずだった。

 映画は、「もう書けない」と断筆宣言をしていた九十歳の作家、佐藤愛子草笛光子)と、何とか佐藤に連載のエッセイを書いてもらおうと奮闘するちょっと風変わりな中年編集者、吉川(唐沢寿明)とのやり取りが中心であった。毎回手土産を持って執筆依頼にいく吉川。しかし佐藤は手土産だけ受け取って、いっこうに作品を書こうとはしない。このシーンだけ見ていると、「佐藤愛子ってけっこうがめつい作家?」と思えてくるし、ペコペコばかりしている吉川に対しては、「次(の作家)に行け、次に」と言いたくなるももどかしさも感じる。しかし、偉そうに見えた佐藤自身も実は、「もう自分には書けない」という思いと闘っていた。一方吉川も、妻から離婚を迫られていた。それぞれが、それぞれの人生の中で、人には言えない悩みや苦悩を抱えている。その現実と向き合いながら今を精一杯生きている等身大の二人を見ていたら、最初はちょっとばかばかしく思えていた二人の関係も、次第に応援したいものとなっていった。その応援の甲斐あってか(?)、佐藤は再びエッセイを書きはじめ、書くことで作家としての人生を取り戻していく。また吉川も世の中に「よい文章を送り出していく」という編集者としての使命を全うする。人間が持つ可笑しさ、愛おしさ、たくましさが随所にみられ、最後には二人に「いいぞ」という拍手を送っている自分がいた。

 ただ、私がこの映画を観て一番よかったことは、実は映画の内容そのものではなかった(ごめんなさい)。この映画を観たことで、かねてよりずっと気になっていた曲名を知ることが出来たこと、それがこの映画を観た私にとっては、一番うれしいことであった。その曲名とは、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」。映画の中では、吉川の娘が躍るバレエのシーンで使われていた。それでエンドロールを目を皿のようにして見ていると、ずっと探し求めていた大好きなこの曲の名前を知ることができたのである。

 このことは、映画全体から見たら、予想外のおまけ(個人的なおまけ)のようなものだった。ただ、こういう予想外のおまけ、もしくは予想外の着地点を得られるからこそ、映画を観る楽しみが倍増することもある。もっともこれは、映画だけに限らず、本を読むことでも、人と会うことでも、旅に出たり、書くことでも、起こりうる。だから何でもいいので、気になることがあったら行動してみると、今回のように思わぬおまけに出会えるかもしれないとの意を強くした。

追伸。 おまけと言えば、確か、「見逃さにで。その先にあるしあわせのおまけを!」というせりふも、昔観た映画(たぶん『素晴らしき哉、人生は』)の中にあったような。

もしかしたら、予想外のおまけや予想外の着地点は、いい映画やいい出会いにはつきものなのかもしれない。

一日一個、新しいことをしてみよう!

 小さなことでいい。一日一個、新しいことに挑戦してみることにした。それで本当は今日から京都に行き、「夏越の払い」の和菓子である水無月を食べて来ようと思っていた(京都にはこの時期、一年の無事を祈願して、水無月を食べる風習がある)。しかし京都の天気はどうやら雨。しかも土砂降りの予報も出ていた。それで今回は京都行きは断念し、代わりに60歳になると利用資格を得られる、家の近くの「老人福祉センター」のお風呂に初めて行ってみることにした。

 入浴の手続きは簡単だった。受付で名前を書き、「お風呂にきました」と告げると、初めてだったこともあり、職員の方がお風呂場まで案内してくれた。すでに入浴後のお年寄りたちが、入り口のところにあるマッサージ機でくつろいでいる。そして、風呂場の入り口にも、再び名前を書く紙が置かれていて、職員の方に「フルネームで書いてね」と言われた。これは老人(60歳以上は、れっきとした老人らしい)がもし風呂場で倒れても、すぐに誰だかわかるようにするためか。「ひとりでの入浴は禁止」という張り紙もしてあった。

 脱衣所は思ったより広く、殺風景ではあるが、鍵のついたロッカーもある。ただ、ドライヤーは置いてなかった(髪は濡れたまま帰るの?)。

 次に浴室へ。中は明るく、開放的。「思っていたよりいい」というのが私の第一印象である。洗い場は6か所あり、すでに3人の方がいらした。どこに座ろうかと見回していると、「ここ、空いてますよ」と声をかけてくれる方がいた。よく見ると、6か所ある洗い場のうち、シャワーがついているのは3か所。その方はシャワー付きの洗い場に私を誘ってくれたのだ。優しい。こういう一声で、心も和んだ(私だったら、すぐにこういう声かけが出来るだろうか)。

 湯船も思ったより広くて、私が見たときには2人の方がうつぶせの姿勢で、こいのぼりのように全身を伸ばして入っていた。さっそく私もまねてみた。

 家での私は、カラスの行水である。さっとしか湯船にはつからないため、浴槽にはったお湯がもったいないと思うくらいである。しかし今回は出来るだけゆっくり、湯船につかることにした。なぜなら、いつもとは違うことにチャレンジすることが、今回の一番の目的だったからである。

 「これが気持ちいいという感覚か」。味わいながら伸びていると、ふと昔読んだ、荻野アンナ氏の本、『蟹と彼と私』の中の一節を思い出した。そこでは入浴中の女性の後姿(お尻)を、確か「割れ目の花が咲いている」という言葉で表現していたと思う。その言葉はジョージア・オキーフの大輪の花を連想させた。誰でもひとつ持っている個性的な花は、顔ではなくお尻なのかもしれない。

 それにしても、荻野氏の言葉を急に思い出したのは、6月のはじめ、神奈川近代文学館で「帰ってきた橋本治展」を見たからだと思う。(荻野氏は現在、この館の館長をされている)。入浴中は脳内のデフォルトネットワークの働きも強まるのだろう。ぼーっとしていると、色々なことがつながって思い出された。

 今回は湯船には2回、自分としては結構長くお湯につかったつもりだった。しかし脱衣所にあがると、さっき声をかけてくれたおばあちゃんに、「若いから、ずいぶん早いのね」と言われた。どうやら先輩女性たちは、もっと長い時間、いろいろな話をしながら、入浴タイムを楽しんでいるようだ。洗面所の水をペットボトルに入れて飲んでいる方もいた。このへんは、ホテルの浴室とはちょっと違うところ。帰りの循環バスの時間になったらしく、「また会いましょう」と言って帰られていった。

 私はと言えば、お風呂のあとはバスタオルを肩にかけたまま(やはり髪は完全には乾かなかった)、2階にある図書室へ。実は数日前、図書室の下見はしておいた。本は古いものが少し置いてあるだけだったが、NHKの「きょうの料理」などの冊子は昨年度のものが全部そろっていて、料理好きの私にとってはうれしいことだった。また、大きな窓の前には、カウンターのように机が配置されており、眼下には緑の庭園も広がっている。クーラーやWi-Fiもある。そして両日とも私がいる間には、他の利用者はいなかった。もしかしてここは、私の第4の書斎(家と仕事場と喫茶店の他に)なるかもしれない。「老人福祉センター(別名、いきいきセンター)」という名称は、まだなんか新米老人(?)としてはしっくりはこないけれど(笑いにかえよう)、新しく見つけた隠れ家的存在のこの場所は、好きになった。

 話を戻そう。今日は図書室で『橋本治内田樹』(筑摩書房)の対談集を読んだ。「帰ってきた橋本治展」に行って以来、橋本氏への興味が湧いている。実は20年くらい前にも一度橋本氏の著書、『「わからない」という方法』は読みはじめたのだが、その時にはよくわからないまま、途中で挫折した。ただそのころ、講演会か何かで生前の橋本氏に一度お会いしている。どういうシチュエーションだったのかは覚えていないが、直接2,3言葉もかわし、「あなたはどんな本を読んでいるの?」と聞かれた。それで私が「今は海老坂武氏の本を読んでいます」と答えると、橋本氏がちょっとびっくりした顔をされたのをよく覚えている(同じ東大出身同士のお二人。橋本氏も海老坂氏の本を読まれているのかもしれないと思った)。

 一方、今回の橋本治展では、展示場には橋本氏の興味深い言葉がいっぱい書かれてあった。それで、メモを取りながら見ていたら、あっという間に閉館時間となってしまった。帰りに展覧会の目録を買うと、何時間もかけてメモした言葉のいくつかは、その目録の中にも載っていた。

 老人福祉センターでの初めての入浴、その後の図書室での豊かな時間を経て、今日の私の小さな冒険を終えた。

 

新しい春の訪れ

 合唱曲が好きである。一番は決められないけれど、信長貴富氏作曲の「恋唄・空」や「恋よ、ぼくらふたりの…」はもう何度聴いたかわからない。

 あるとき、同じく合唱好きの同僚にそのことを伝えると、「私は、信長貴富氏の曲の中では、「「春」が一番好き」との手紙をくれた。もう10年近く前の話だが、すぐに私も「春」を聴いてみた。  納得! 新川和江氏の詩に、信長氏が曲をつけたものだったが、「わたしはもう悲しむまい」の歌詞から始まるこの曲には、人の心を元気にする力があった。

 春。別れと出会いが交差する季節。私も昨日(2023年3月31日)、定年退職を迎え、長らく務めた学校をあとにした。楽しいことやうれしいことと同じくらい、つらいことや悲しいこともあった。しかし、「私はもう悲しむまい。…春だもの」とつぶやきながら、新しい春に出発した。